やっさん飲み屋
三日間居候の巻
辺りも暗くなって来て、・上先坂・の板張りの橋を急いでいた。
正三郎は、何故こんなに丸い橋なのだ・・・
と
ぶつぶつ言いながら、もう少しで真ん中だなと思った途端
履き物が滑って尻餅をついた。
正三郎の顔上をその履物がスローモーションのようにゆっくり通り過ぎ、
今上がって来た橋の遠くに飛んでった。
腰の物はガツンと橋に強く当たり、その大きな身体は奇妙な形で夜空を仰いだものだ。
痛みが走る。
が、
彼は周りを気にした。
ほっとした
誰もいない。
いざ立ちあがろうと、やっとの事で手すりに掴まり、立とうとした時だ。
「お侍様、どうなすったかね。」
その声に驚いて振り向くと、背負い
籠に葱をいっぱい入れた、歳の頃、四十は出たろうと見える町人が、あの飛んだ履物と提灯を持って立って居るではないか。
「ど、どうもいたさん!
野良犬が足にまとわりついて
転んだだけでござるよ。」
誠の様な嘘が口をついて出た。
正三郎は恥ずかしそうに笑うしかない。
履物を受け取り早々に立ち去ろうとしたが、腰から尻、足がひどく傷んで三歩も歩けなかった。
「店に寄らんかね、お侍様、えらくきつそうだ。」
と肩を貸して来る。
本来気さくな性格で、其れに甘える抵抗は持た無い。
だだ、照れくさいのだ。
道々に灯りは有るがぼんやりとして足元は暗い。
一里程、四半時は歩いたろうか。
其処はこの町人が営む居酒屋で在るらしく、暖簾の前が一段と明るく、戸の向こうから賑やかな声が漏れてくる。
開けると楽しげな声は大きくなって、
殊更痛めた腰に響く。
女将が忙しく立ち動き五、六人程の客の相手をしていた。
二人を見ると客の一人が
「どうしたんだょう、やっさん(弥市)が居なけりゃ始まんねぇ〜。」
と言うもんだから、
正三郎は、頭をかきかき
「済まぬ、拙者、ちと転んで
この吾人に世話になった。」
と言うと
少し頭の涼しげな爺様が
「怪我をなさったかな?」
呑みかけの猪口を置くと腰を上げて来た。
驚いていると
「爺さん、医者だから安心しな。」
と、女将が背負い籠を受け取りながら笑って言う。
「だけどなぁ、ヤブ、だで、先生〜。」
と誰かが笑った。
「これ!」
と、窘める女将の笑い声が店に響くと、誰だろうか、
箸で茶碗をチーンと叩き、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏〜」
と言ったもんだから、そこに居る皆が笑い出して囃し立てて居る。
「どれ、痛いのはこの辺りかな?」
爺様医者は腰のあたりを押した。
激痛が走る。
武士は何があっても弱音は吐かぬ、
我慢せねばと歯を食いしばった。
だが痛い物は痛かった。
「これは少し酷いな、やっさん、布団ひいてくれるか?」
布団?其れでは帰れぬでは無いか!
そう、正三郎は心で叫んだ。
さっさと若いもんに身体を支えられて彼は布団に寝かされてしまった。
それは嫌がる訳でも、怪しむ訳でもなく、正三郎に対する動きは彼の心に沁みて温かい。
「腰もそうだが足も打ってるな。
暫くは動けんだろう、
此処に少し逗留するが、お前さんのためだよ。」
「やっさん、後で誰か軟膏を取りによこしてくれんか。」
と言い、
彼は立ち上がると、
呑み代の小銭を置いて店から早々出ていった。
正三郎の顔色をやっさんは見たのだろう
「良くなるまで此処に居な。
何、この部屋は時々皆んなも泊まっていく、
遠慮は要らねえ。」
其の言葉に躊躇いは無かった。
「やっさん、すまぬ。」
と言っては見たが、困った事になってしまったと思う。
其の時、さっき起きた、自分の目の上を飛んでいく、あの履物が目に浮かび、
正三郎は苦笑いを堪えた。
「いて!」と小さく呻いた。
店はやんやの大騒ぎ、ついでや呑めや、の声が響き、
誰とも無く歌い出す。
この土地の歌だろうか、
それが妙に心地良い、
・・いつの間にか彼は寝てしまった様で有る。
根深汁の香りが漂う。
正三郎は若い。否が応でも腹の虫が鳴く。
目が覚めた。
外からの朝の陽射しが眩しい。
障子が少し開いている。
顔を向けでも女将の姿は見えないし、やっさんの姿も見えなかった。
着流しの裾は乱れて掛け布団も乱れている。
他人(人)の家でも寝相の悪さは変わらんのか・・
「お侍様、まだ名前聞いてなかったね。」
突然の声に上目遣いで見るとそこに女将の顔が逆さに見えた。
「コレは失礼した、飯山正三郎と言う馬鹿者でござるよ。」
「飯山様、良く寝れたかね。」と聞きながら手早く布団を直している。
「その様でござる。」
彼女は(お由衣)と言う。
三十は超えて居るだろう。決して美人とは言えないが、明るく笑うその
笑顔は輝いて見える。
「あ、やぶ、がね、三日は辛抱だと言ってくれってさ。」
ー何、三日?
いや此処で三日も世話にならんといかんのか、?
心が騒ぐ、直ぐさま懐に手を入れて財布を弄った、
・・有る、
そこそこ、有るだろう、安心した。
やっさんに世話を掛けて知らんぷりは出来ん・・
お由衣は其の動きを見ていた。
「費えの心配なら無いよ。
そんな事より少し身体起こせるかね?」
と言う。
驚いた!
ー心を読まれてしまった。
(違うだろ!)
まだまだ修行が足らんなー
(其の通りである。)
気がつくと押し入れから敷布団を出して居る。
其のしっかりとした体格
がやっさん飲み屋を支えて居る。
正三郎はそう感じた。
枕が外され、其の後に畳んだままの敷布団が置かれる
「飯山様、少しいいかね、身体引っ張るよ。」
ー幾ら強い下半身とは言え、拙者を動かす事は在るまいー
直さま動いた!
・な、なんと言う力だ!
正三郎は女将の顔をまじまじ見つめた。
「痛くは無いかね?」
そう聞かれたが、そう痛くもない。
お膳を運んで横に置き、彼女は座った。
「腹が空いたろ?悪いのは腰だ。たんと食べなきゃね。」
と言う。
見れば根深汁の腕から湯気が立ち、目刺しが二尾、さつま揚げと大根の煮物、香のものが並んでいる。
彼の喉仏がゴクンと動く。
しかし思う。
食べるのは嬉しい。
だが食べれば結果、排出せねばならぬ時が来る。
それを想像すると
こ、これはどうしたものか!
引きずられてもせっちんには行けそうも無い。
す、すると!
埒もない事を考えて口をポカンと開けてたところに麦飯が入って来た。
もう覚悟を決めてされるまま・・
ぼうっと思う。
これでも飯山家の三男坊だ。何度かそれが過ぎる。
だが、さつま揚げの甘さ、めざしの苦さ、根深汁の葱の美味しさ、汁のあったかさ、麦飯の噛み心地の良さ、口に運ばれる都度、
あの思いは遠くなり、どうでもよくなっていく。
差し引き無く美味いのだ。
屋敷ではこんな味には出会えなかった。
三男坊の冷や飯食い。
そんなひんやりとした立場に居て、箸も自由に伸ばせない、
そんな暮らしに甘んじて来た。
それが今、腰の痛みを我慢してる事を除けば、美味いものが容赦なく口に運ばれている。
・泣かぬぞ・
そう思いながら正三郎には
目が潤むのをどうにも止める事が
難しかった。
半時くらいしてやっさんが市場から戻ったようだ。
「河岸にな、いい秋刀魚が並んでてよ、いっぺい仕入れて来たんだ。
今夜はタタキにして柚かな、塩焼きも美味いな。」
「お前さんは目利きだからね〜。
今夜の客の顔見えるようだわ。」
そう居酒屋夫婦が話して居るのが聞こえて来た。
なんとも其の響きが心地良い。
昨日の葱も沢山ある。
「豆腐も仕入れて来たで、焼き豆腐に刻みネギと生姜でいくかい!」
「そだね!」
それは美味そうだなと聞いてて思う。
だが、だがー、
その時、ついにあれが来た。
腹の中がぐりぐり周り、音も聞こえる。痛みで身体も動かせないし、
嗚呼、どうしょうか、
どうしようか、
焦る
焦る。
やっさんどの!や、やっさん!ー
(ーだが筆者はその後は知らない。
と、そう言う事にしておこう・・・)
彼のその難儀と痛さを他所に置き
今夜も店は賑わい出した。
当然正三郎の話が出る。
「あのお侍さんはまだ居るのかい?」
二件先に住む大工の鉄が聞いた。
酒をつぐ音が微かにして
「ああ、三日や四日位は動けないなんて先生がね。」
ーやっさんの声だ。
障子の奥で聞き耳を立てる。
嫌、今朝のあの一件、話しに出ぬかと気が揉めてならないのだ。
鉄と言うらしい男が「ふぅーん、そうか。」
と言う。
何がそうなのか分からない。
「先生そういゃー来てねえな。」
と誰が言う。
「爺さんか?そういゃー居ねえな。」
来なきゃ来ないで気になるもんらしい。
それにしても秋刀魚の香りが正三郎の腹を擽るが、あの事を考えると少し誘惑を抑える事が出来た。
あれはやっさんや女将に済まぬ。
そう思うのである。
懲りていた。
だが、まだ知らない。合間を見てお由衣がまた膳を運んで来ることを・・
時が経つうち、また賑やかさが増してくる。威勢のいい話が飛び交う。ちょっとした噂話が聞く度に大きくなって広がって行く。
楽しかった。
寝ていても
その時お由衣が障子を開けた。
「喉渇いてないか?」と言う。
彼は
「今は要らぬ。」と断った。
水なんて飲んだらまたこの忙しいのに二人に造作をかけてしまう。
なるべく回数を減らしたい、
それだった。
「あ、あ、そうかね。」
意外とあっさりと障子が閉まった。
し、閉めたのかー
賑やかな声がすればするほど寂しく思う。
やっさんやお由衣の顔が見たい。
これは一体どうした事だろう。
幼い時には確かにこんな思いを抱いた事があった。それから久しい。
だが何で今、そう思う。
ー私はもしやあの時、頭も怪我をしたかも知れぬ,,,
「 飯山様〜待たせたねー、ご飯食うかね。」
勢い障子戸が開く。
嬉しいが返事が・・・
腹はグゥーっと鳴いて
朝が怖い・・
やっさん飲み屋の上の空にすうーと一筋星が流れた
や、やっさんどの!やっさん!
の声は今朝も店に轟いて落ち着いたところである。
どうやらやっさんは今夜の仕込み中らしい。
煮物の香りが漂って、床の中にいるだけの正三郎にはそれが楽しくもある。
お由衣の声がしないのはつかの間近所のかみさん連中と井戸端会議でもしてるのだろう。
そんな時、店の戸が開く音がした。
「お、鉄っさん、何だね、休みか?」
「な、何ね、飯食いに帰ってついでよ、ほら!」
「お、杖かい。」
杖?
「余りの木材あったから、削った迄よ。
お侍さんに渡してくんねぇ。」
「ありがとよ!」
・杖、拙者にか・鉄殿・・
「聞いてたかね、使ってくれとさ、
頼みもしないのになぁ。」
少し開けた障子から身を乗り出すように杖が正三郎の寝床の横にすーっと置かれた。
頷きはしたものの声が出ない。
其れを掴むと懐に抱きしめた。
してやった、など偉ぶる訳でもなく、当然のように、ほいと置いて行った。丁寧に磨いたのだろう
杖は先の方までツルツルであり、持ち手には滑り止めが施してある。
布団で顔を隠した。
もう堪える事は出来ない。
声を殺して泣いた。
ーなんて言う奴らだ、
鉄さんも、みんなも、やっさん、女将も
涙が止まらない。
暫く泣いた
正三郎が居候して3日目の夜が来ようとしていた。
大分腰の痛みも落ち着き
まだ震えるが少し杖に頼り、せっちんには時間をかけ、何とんか歩けるくらいまで回復をしていた。
そろそろ店を開ける時も迫っている。
部屋の裏の廊下を歩きながら見る秋の夕焼け空が美しい。
その戸を開けようとして彼の手が止まった。
ん、やっさんの話し声がする。
柱に持たれて杖も頼りに耳をそば立てると、
「おい、野良こう、飯食ったらうろちょろすんな、」
やっさんの笑う声。
そっとせっちんから裏口を覗いてみるとやっさんが屈んで居る。
茶色少し痩せた茶色の犬だ。
可愛い。
それにご飯をくれている。
「食ったらな、まっつぐ、ねぐらにけえるんだぞ、でねえと、また濡れ衣着せられちゃ、かなわねぇだろー?」
あ、バレていた!
やっさんはあの晩、最初から見てたのか・・
胸が詰まる。
彼は項垂れた。
ーもう犬のせいになんてするものか、
・・俺は、なんて男だ。
やっさんのその背中が大きく見えた。
そして少しの間を置き
彼は大きな音を立て、せっちんの戸を閉めたのである。
敷布団を背中にして少し持たれながら食事が摂れる良うになってお由衣はその傍にチャブ台を持ってき、その上に膳を置くと
「鍋だし、心配だ・・」と
ひとりでブツブツ言いながら店に戻ると
「あれ、政さんじゃないか、えらく来なかったねえー、熱燗かい!」と偉く嬉しそうなお由衣の声が聞こえて
ー今日も賑やかになりそうだと
と正三郎の心も踊る。
膳を見ると湯豆腐だ
美味そうな湯気が立ち、
豆腐は白菜の上で彩りを添えている。深谷ねぎ、それに魚はタラだろうか。
店からの音に誘われてあっという間に平らあげてしまった。
頃よくお由衣が下げに来て、ちゃぶ台もたたもうとした時
ふとついて出た。
「すまぬ、そのままにしてくれんか。」
意味は無かった。
本人にも分からない。
「あ、そかね。」
あっさりと部屋を出ていく。
少し座ったままでいたかった。
そこに杖を乗せた。
仕上げが綺麗だ
・・やはり大工の手だな
正三郎は少し撫でると
そのまま目を瞑むり、
少しウトウトしたらしい。
ん、少し腰が痛い。
店はかなりの賑わいだ。
夜の五つ時位なのだろう。これからがもっと賑わう。
3日目ともなると少し様子が飲み込めてくる。
「お、すまんな、今空いてねえんだ。」
やっさんの声
「またくらぁー」
「悪いな。」
常連だろう。
いっぱいなのか
少し見てみたいがやめておく。
無理すんな、と怒られるのが
オチだ
そう思い、自分で敷布団をずらし、枕に手をかけた時だった。
「おい、席を開けろ!酒だ!」
かなり大きな声がして手が止まった。
一人では在るまい!
「お侍さん、すみません。今日はいっぱいで。」
やっさんの断りは揺るが無い。
「何を!わしらに呑ませんと言うのか!いいからを追い出せ!」
正三郎がちゃぶ台に手をついた。杖を手に取り立ち上がる、
尋常ではない!
障子を力一杯に開け技と其の大きな音を立てた。腰が辛い。
驚いて、タチが悪そうな髭の浪人が構を変えた。
店と寝ていた部屋の境の縁側に立つ
足が震える
怖いのではない
やめんか!
言うが楽早く杖を構える
腰が決まった。
「何を!」
と正三郎を見て勢い刀を抜いた。
下から男の腕を祓った。其の返す手で思い切り振り下ろし、手の付け根を打った。
電光石火の動きである。
折れただろう音で解る。
後ろの痩せ浪人が
「でごわい!退け!」
と叫ぶ。、
一瞬だった。
其れを見ていた客が
一気に雪崩れ込んで正三郎を囲んで騒ぎ始めた。
その歓声の中
へたへたと正三郎はへたれこんで行く。
い、痛い!
お由衣も若い衆も,爺様先生もお構いなしに踊りまくって居る
だが、鉄さんと、やっさんは冷静で有る。
分けて其の中に入り込み
正三郎を抱えたのである。
二人で彼に軟膏を塗り終えると、
鉄は店へ戻った。
「飯山様は強いんだねえ。
一発じゃねえかい。」やっさんが笑いながら言う。
「いや,父が厳しくてな,幼い頃から鍛錬させられた。」
「飯山様は」
正三郎は其の言葉を遮った。
「もう飯山様はおしまいにしてくれんか、正(しょう)でいい。」
やっさんが顔を綻ばせる。
「しょう?そりゃーいいや!飯山様じゃ堅苦しくて行けねぇ。」
「じゃー聞くべい、正さん。
あの刀の流儀ってえのはあるのか?」
「ある、余り役にも立たんがな、一応無外流だ。」
「無外流かい。俺らにはさっぱり分からねえが腕立つなぁ〜。」
「あのな、」
まだやっさんは聞きたい事があるらしい。
正三郎は爆笑して言った。
「やっさん,大騒ぎしてる連中,放っておいてもいいのかい?」
「あ、いけねぇ!」
やっさんは膝を打った。
「また後で聞かぁ!」
そう言い残し,騒ぎの真っ只の中へ戻っていった。
正三郎は一人,笑い声に耳を傾ける。
ーー腰さえ痛まなければ三人とも叩きのめしていたろう。
たが、あれで良かった。
自分の武勇伝を肴に騒ぐ客達の其の声が
何処か、くすぐったかった。
帰っていく客が次々に正三郎に声をかけて来た。
爺様医者は腰を診て帰り、初めての政さん、平太、初めての日支えてくれた若者,知らぬ者まで
正さんと誰もが呼ぶ、其の嬉しい夜
だが、心の声が屋根をつき抜ける。
ーもう寝かせてくれい!