やっさん呑み屋

やっさん飲み屋

         三日間居候の巻

 


  辺りも暗くなって来て、・上先坂・の板張りの橋を急いでいた。

正三郎は、何故こんなに丸い橋なのだ・・・

ぶつぶつ言いながら、もう少しで真ん中だなと思った途端

履き物が滑って尻餅をついた。

 


正三郎の顔上をその履物がスローモーションのようにゆっくり通り過ぎ、

今上がって来た橋の遠くに飛んでった。

 

 

 

腰の物はガツンと橋に強く当たり、その大きな身体は奇妙な形で夜空を仰いだものだ。

 

 

 

痛みが走る。

が、

彼は周りを気にした。

ほっとした

誰もいない。

 


いざ立ちあがろうと、やっとの事で手すりに掴まり、立とうとした時だ。

 


「お侍様、どうなすったかね。」

 


その声に驚いて振り向くと、背負い

籠に葱をいっぱい入れた、歳の頃、四十は出たろうと見える町人が、あの飛んだ履物と提灯を持って立って居るではないか。

 


「ど、どうもいたさん!

野良犬が足にまとわりついて

転んだだけでござるよ。」

 


誠の様な嘘が口をついて出た。

 


正三郎は恥ずかしそうに笑うしかない。

履物を受け取り早々に立ち去ろうとしたが、腰から尻、足がひどく傷んで三歩も歩けなかった。

 


「店に寄らんかね、お侍様、えらくきつそうだ。」

と肩を貸して来る。

本来気さくな性格で、其れに甘える抵抗は持た無い。

だだ、照れくさいのだ。

 


道々に灯りは有るがぼんやりとして足元は暗い。

一里程、四半時は歩いたろうか。

 


其処はこの町人が営む居酒屋で在るらしく、暖簾の前が一段と明るく、戸の向こうから賑やかな声が漏れてくる。

 


開けると楽しげな声は大きくなって、

殊更痛めた腰に響く。

女将が忙しく立ち動き五、六人程の客の相手をしていた。

二人を見ると客の一人が

 


「どうしたんだょう、やっさん(弥市)が居なけりゃ始まんねぇ〜。」

 


と言うもんだから、

正三郎は、頭をかきかき

 


「済まぬ、拙者、ちと転んで

この吾人に世話になった。」

と言うと

少し頭の涼しげな爺様が

 


「怪我をなさったかな?」

 


呑みかけの猪口を置くと腰を上げて来た。

 


驚いていると

 


「爺さん、医者だから安心しな。」

と、女将が背負い籠を受け取りながら笑って言う。

 


「だけどなぁ、ヤブ、だで、先生〜。」

と誰かが笑った。

 


「これ!」

と、窘める女将の笑い声が店に響くと、誰だろうか、

箸で茶碗をチーンと叩き、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏〜」

と言ったもんだから、そこに居る皆が笑い出して囃し立てて居る。

 


「どれ、痛いのはこの辺りかな?」

 


爺様医者は腰のあたりを押した。

 


激痛が走る。

武士は何があっても弱音は吐かぬ、

我慢せねばと歯を食いしばった。

だが痛い物は痛かった。

 


「これは少し酷いな、やっさん、布団ひいてくれるか?」

 


布団?其れでは帰れぬでは無いか!

そう、正三郎は心で叫んだ。

 


さっさと若いもんに身体を支えられて彼は布団に寝かされてしまった。

 


それは嫌がる訳でも、怪しむ訳でもなく、正三郎に対する動きは彼の心に沁みて温かい。

 


「腰もそうだが足も打ってるな。

暫くは動けんだろう、

此処に少し逗留するが、お前さんのためだよ。」

 


「やっさん、後で誰か軟膏を取りによこしてくれんか。」

と言い、

彼は立ち上がると、

呑み代の小銭を置いて店から早々出ていった。

 


正三郎の顔色をやっさんは見たのだろう

 


「良くなるまで此処に居な。

何、この部屋は時々皆んなも泊まっていく、

遠慮は要らねえ。」

 


其の言葉に躊躇いは無かった。

 


「やっさん、すまぬ。」

 


と言っては見たが、困った事になってしまったと思う。

 


其の時、さっき起きた、自分の目の上を飛んでいく、あの履物が目に浮かび、

正三郎は苦笑いを堪えた。

「いて!」と小さく呻いた。

 


店はやんやの大騒ぎ、ついでや呑めや、の声が響き、

誰とも無く歌い出す。

この土地の歌だろうか、

それが妙に心地良い、

 

 

 

・・いつの間にか彼は寝てしまった様で有る。

 


   根深汁の香りが漂う。

正三郎は若い。否が応でも腹の虫が鳴く。

目が覚めた。

外からの朝の陽射しが眩しい。

 


障子が少し開いている。

顔を向けでも女将の姿は見えないし、やっさんの姿も見えなかった。

 


着流しの裾は乱れて掛け布団も乱れている。

 


他人(人)の家でも寝相の悪さは変わらんのか・・

 


「お侍様、まだ名前聞いてなかったね。」

 


突然の声に上目遣いで見るとそこに女将の顔が逆さに見えた。

 


「コレは失礼した、飯山正三郎と言う馬鹿者でござるよ。」

 


「飯山様、良く寝れたかね。」と聞きながら手早く布団を直している。

 


「その様でござる。」

 

 

 

彼女は(お由衣)と言う。

三十は超えて居るだろう。決して美人とは言えないが、明るく笑うその

笑顔は輝いて見える。

 


「あ、やぶ、がね、三日は辛抱だと言ってくれってさ。」

 


ー何、三日?

いや此処で三日も世話にならんといかんのか、?

心が騒ぐ、直ぐさま懐に手を入れて財布を弄った、

・・有る、

そこそこ、有るだろう、安心した。

やっさんに世話を掛けて知らんぷりは出来ん・・

 


お由衣は其の動きを見ていた。

 


「費えの心配なら無いよ。

そんな事より少し身体起こせるかね?」

と言う。

 


驚いた!

 


ー心を読まれてしまった。

(違うだろ!)

まだまだ修行が足らんなー

(其の通りである。)

 

 

 

 


気がつくと押し入れから敷布団を出して居る。

其のしっかりとした体格

がやっさん飲み屋を支えて居る。

 


正三郎はそう感じた。

 

 

 

 


  枕が外され、其の後に畳んだままの敷布団が置かれる

 


「飯山様、少しいいかね、身体引っ張るよ。」

 


ー幾ら強い下半身とは言え、拙者を動かす事は在るまいー

 


直さま動いた!

 


・な、なんと言う力だ!

 


正三郎は女将の顔をまじまじ見つめた。

 


「痛くは無いかね?」

 


そう聞かれたが、そう痛くもない。

 


お膳を運んで横に置き、彼女は座った。

「腹が空いたろ?悪いのは腰だ。たんと食べなきゃね。」

と言う。

 


見れば根深汁の腕から湯気が立ち、目刺しが二尾、さつま揚げと大根の煮物、香のものが並んでいる。

彼の喉仏がゴクンと動く。

 


しかし思う。

食べるのは嬉しい。

だが食べれば結果、排出せねばならぬ時が来る。

それを想像すると

 


こ、これはどうしたものか!

引きずられてもせっちんには行けそうも無い。

 


す、すると!

 


埒もない事を考えて口をポカンと開けてたところに麦飯が入って来た。

もう覚悟を決めてされるまま・・

ぼうっと思う。

 


これでも飯山家の三男坊だ。何度かそれが過ぎる。

 


だが、さつま揚げの甘さ、めざしの苦さ、根深汁の葱の美味しさ、汁のあったかさ、麦飯の噛み心地の良さ、口に運ばれる都度、

あの思いは遠くなり、どうでもよくなっていく。

差し引き無く美味いのだ。

 


屋敷ではこんな味には出会えなかった。

 


三男坊の冷や飯食い。

そんなひんやりとした立場に居て、箸も自由に伸ばせない、

そんな暮らしに甘んじて来た。

それが今、腰の痛みを我慢してる事を除けば、美味いものが容赦なく口に運ばれている。

 


・泣かぬぞ・

 


そう思いながら正三郎には

目が潤むのをどうにも止める事が

難しかった。

 


 半時くらいしてやっさんが市場から戻ったようだ。

 


「河岸にな、いい秋刀魚が並んでてよ、いっぺい仕入れて来たんだ。

今夜はタタキにして柚かな、塩焼きも美味いな。」

 

 

 

「お前さんは目利きだからね〜。

今夜の客の顔見えるようだわ。」

 


そう居酒屋夫婦が話して居るのが聞こえて来た。

 


なんとも其の響きが心地良い。

 


昨日の葱も沢山ある。

 

 

 

「豆腐も仕入れて来たで、焼き豆腐に刻みネギと生姜でいくかい!」

 


「そだね!」

 


それは美味そうだなと聞いてて思う。

  

だが、だがー、

その時、ついにあれが来た。

腹の中がぐりぐり周り、音も聞こえる。痛みで身体も動かせないし、

嗚呼、どうしょうか、

どうしようか、

焦る

焦る。

 


やっさんどの!や、やっさん!ー

 


 (ーだが筆者はその後は知らない。

と、そう言う事にしておこう・・・)

 


彼のその難儀と痛さを他所に置き

今夜も店は賑わい出した。

当然正三郎の話が出る。

 


「あのお侍さんはまだ居るのかい?」

二件先に住む大工の鉄が聞いた。

 


酒をつぐ音が微かにして

 


「ああ、三日や四日位は動けないなんて先生がね。」

 


ーやっさんの声だ。

 


障子の奥で聞き耳を立てる。

嫌、今朝のあの一件、話しに出ぬかと気が揉めてならないのだ。

 


鉄と言うらしい男が「ふぅーん、そうか。」

と言う。

何がそうなのか分からない。

 


「先生そういゃー来てねえな。」

と誰が言う。

「爺さんか?そういゃー居ねえな。」

 


来なきゃ来ないで気になるもんらしい。

それにしても秋刀魚の香りが正三郎の腹を擽るが、あの事を考えると少し誘惑を抑える事が出来た。

あれはやっさんや女将に済まぬ。

そう思うのである。

懲りていた。

 


だが、まだ知らない。合間を見てお由衣がまた膳を運んで来ることを・・

 


時が経つうち、また賑やかさが増してくる。威勢のいい話が飛び交う。ちょっとした噂話が聞く度に大きくなって広がって行く。

楽しかった。

寝ていても

 


その時お由衣が障子を開けた。

 


「喉渇いてないか?」と言う。

彼は

「今は要らぬ。」と断った。

 


水なんて飲んだらまたこの忙しいのに二人に造作をかけてしまう。

なるべく回数を減らしたい、

それだった。

「あ、あ、そうかね。」

 


意外とあっさりと障子が閉まった。

 


し、閉めたのかー

 


賑やかな声がすればするほど寂しく思う。

 


やっさんやお由衣の顔が見たい。

これは一体どうした事だろう。

 


幼い時には確かにこんな思いを抱いた事があった。それから久しい。

だが何で今、そう思う。

 


ー私はもしやあの時、頭も怪我をしたかも知れぬ,,,

 


「 飯山様〜待たせたねー、ご飯食うかね。」

勢い障子戸が開く。

 


嬉しいが返事が・・・

腹はグゥーっと鳴いて

朝が怖い・・

 

 

 

 


やっさん飲み屋の上の空にすうーと一筋星が流れた

 


  

 


や、やっさんどの!やっさん!

の声は今朝も店に轟いて落ち着いたところである。

 


どうやらやっさんは今夜の仕込み中らしい。

 


煮物の香りが漂って、床の中にいるだけの正三郎にはそれが楽しくもある。

お由衣の声がしないのはつかの間近所のかみさん連中と井戸端会議でもしてるのだろう。

そんな時、店の戸が開く音がした。

 


「お、鉄っさん、何だね、休みか?」

「な、何ね、飯食いに帰ってついでよ、ほら!」

「お、杖かい。」

 


杖?

 


「余りの木材あったから、削った迄よ。

お侍さんに渡してくんねぇ。」

「ありがとよ!」

 


・杖、拙者にか・鉄殿・・

 


「聞いてたかね、使ってくれとさ、

頼みもしないのになぁ。」

 


少し開けた障子から身を乗り出すように杖が正三郎の寝床の横にすーっと置かれた。

 


頷きはしたものの声が出ない。

 


其れを掴むと懐に抱きしめた。

 


してやった、など偉ぶる訳でもなく、当然のように、ほいと置いて行った。丁寧に磨いたのだろう

杖は先の方までツルツルであり、持ち手には滑り止めが施してある。

布団で顔を隠した。

もう堪える事は出来ない。

声を殺して泣いた。

 

 

 

ーなんて言う奴らだ、

鉄さんも、みんなも、やっさん、女将も

 


涙が止まらない。

 


暫く泣いた

 

 

 

  正三郎が居候して3日目の夜が来ようとしていた。

大分腰の痛みも落ち着き

まだ震えるが少し杖に頼り、せっちんには時間をかけ、何とんか歩けるくらいまで回復をしていた。

そろそろ店を開ける時も迫っている。

部屋の裏の廊下を歩きながら見る秋の夕焼け空が美しい。

 


その戸を開けようとして彼の手が止まった。

 


ん、やっさんの話し声がする。

 


柱に持たれて杖も頼りに耳をそば立てると、

 


「おい、野良こう、飯食ったらうろちょろすんな、」

やっさんの笑う声。

 


そっとせっちんから裏口を覗いてみるとやっさんが屈んで居る。

茶色少し痩せた茶色の犬だ。

可愛い。

それにご飯をくれている。

 


「食ったらな、まっつぐ、ねぐらにけえるんだぞ、でねえと、また濡れ衣着せられちゃ、かなわねぇだろー?」

 


あ、バレていた!

 


やっさんはあの晩、最初から見てたのか・・

 


胸が詰まる。

 


彼は項垂れた。

 


ーもう犬のせいになんてするものか、

・・俺は、なんて男だ。

 


やっさんのその背中が大きく見えた。

 


そして少しの間を置き

 


彼は大きな音を立て、せっちんの戸を閉めたのである。

 


敷布団を背中にして少し持たれながら食事が摂れる良うになってお由衣はその傍にチャブ台を持ってき、その上に膳を置くと

 


「鍋だし、心配だ・・」と

ひとりでブツブツ言いながら店に戻ると

「あれ、政さんじゃないか、えらく来なかったねえー、熱燗かい!」と偉く嬉しそうなお由衣の声が聞こえて

 


ー今日も賑やかになりそうだと

 


と正三郎の心も踊る。

 


膳を見ると湯豆腐だ

 


美味そうな湯気が立ち、

豆腐は白菜の上で彩りを添えている。深谷ねぎ、それに魚はタラだろうか。

 


店からの音に誘われてあっという間に平らあげてしまった。

 


頃よくお由衣が下げに来て、ちゃぶ台もたたもうとした時

 


ふとついて出た。

 


「すまぬ、そのままにしてくれんか。」

 


意味は無かった。

 


本人にも分からない。

 


「あ、そかね。」

 


あっさりと部屋を出ていく。

 


少し座ったままでいたかった。

 


そこに杖を乗せた。

 


仕上げが綺麗だ

 


・・やはり大工の手だな

 


正三郎は少し撫でると

 


そのまま目を瞑むり、

少しウトウトしたらしい。

 


ん、少し腰が痛い。

店はかなりの賑わいだ。

夜の五つ時位なのだろう。これからがもっと賑わう。

3日目ともなると少し様子が飲み込めてくる。

 


「お、すまんな、今空いてねえんだ。」

やっさんの声

 


「またくらぁー」

 


「悪いな。」

 


常連だろう。

 


いっぱいなのか

 


少し見てみたいがやめておく。

 


無理すんな、と怒られるのが

オチだ

 


そう思い、自分で敷布団をずらし、枕に手をかけた時だった。

 


「おい、席を開けろ!酒だ!」

かなり大きな声がして手が止まった。

 


一人では在るまい!

 


「お侍さん、すみません。今日はいっぱいで。」

やっさんの断りは揺るが無い。

 


「何を!わしらに呑ませんと言うのか!いいからを追い出せ!」

 


正三郎がちゃぶ台に手をついた。杖を手に取り立ち上がる、

 


尋常ではない!

 


障子を力一杯に開け技と其の大きな音を立てた。腰が辛い。

 


驚いて、タチが悪そうな髭の浪人が構を変えた。

 


店と寝ていた部屋の境の縁側に立つ

 


足が震える

 


怖いのではない

 


やめんか!

 


言うが楽早く杖を構える

腰が決まった。

 


「何を!」

と正三郎を見て勢い刀を抜いた。

下から男の腕を祓った。其の返す手で思い切り振り下ろし、手の付け根を打った。

電光石火の動きである。

 


折れただろう音で解る。

 


後ろの痩せ浪人が

「でごわい!退け!」

と叫ぶ。、

 


一瞬だった。

 


其れを見ていた客が

一気に雪崩れ込んで正三郎を囲んで騒ぎ始めた。

 


その歓声の中

 


へたへたと正三郎はへたれこんで行く。

 


い、痛い!

 


お由衣も若い衆も,爺様先生もお構いなしに踊りまくって居る

 


だが、鉄さんと、やっさんは冷静で有る。

分けて其の中に入り込み

正三郎を抱えたのである。

 


二人で彼に軟膏を塗り終えると、

鉄は店へ戻った。

 


「飯山様は強いんだねえ。

一発じゃねえかい。」やっさんが笑いながら言う。

 


「いや,父が厳しくてな,幼い頃から鍛錬させられた。」

 


「飯山様は」

 


正三郎は其の言葉を遮った。

 


「もう飯山様はおしまいにしてくれんか、正(しょう)でいい。」

 


やっさんが顔を綻ばせる。

 


「しょう?そりゃーいいや!飯山様じゃ堅苦しくて行けねぇ。」

 


「じゃー聞くべい、正さん。

あの刀の流儀ってえのはあるのか?」

 


「ある、余り役にも立たんがな、一応無外流だ。」

 


「無外流かい。俺らにはさっぱり分からねえが腕立つなぁ〜。」

 


「あのな、」

 


まだやっさんは聞きたい事があるらしい。

 


正三郎は爆笑して言った。

 


「やっさん,大騒ぎしてる連中,放っておいてもいいのかい?」

 


「あ、いけねぇ!」

 


やっさんは膝を打った。

 


「また後で聞かぁ!」

 


そう言い残し,騒ぎの真っ只の中へ戻っていった。

 


正三郎は一人,笑い声に耳を傾ける。

 


ーー腰さえ痛まなければ三人とも叩きのめしていたろう。

 


たが、あれで良かった。

 


自分の武勇伝を肴に騒ぐ客達の其の声が

何処か、くすぐったかった。

 

帰っていく客が次々に正三郎に声をかけて来た。
爺様医者は腰を診て帰り、初めての政さん、平太、初めての日支えてくれた若者,知らぬ者まで

正さんと誰もが呼ぶ、其の嬉しい夜

 

だが、心の声が屋根をつき抜ける。

 

ーもう寝かせてくれい!

 

 

 

 

 

二つの親 初公判

第1回公判

立川地方裁判所の
重い扉が鈍い音を立てて開いた。

その音は清志の背中を押すようでも
あり、後戻りを許さぬようでもあった。

刑務官に付き添われ法廷に足を踏み入れる。

空気が違う。
冷たい
静か過ぎる。

緊張した彼の目には傍聴席の光と忘れる事が出来ない元刑事の横田の姿を見るのがやっとだった。

大勢の傍聴人席
誰がいるのか見当もつかない。

皆に犯人だと言われている気がした。
目を合わせる者はいない。
それでも逃げ場は無い。

やがて裁判長が口を開いた。

女性の裁判長だった。

弁護士の玉川は
ーー不利になるかも知れない
正直そう感じていた。

「これより被告人生田清志に対する
被告事件の審理を開きます」

低く、落ち着いた声が静まり返った法廷内に響く。

「被告人前へ」

清志は立ち上がった。
小刻みに膝が震えてならない

「名前は?」

「生田清志です。」
自分の声が気圧の低いところに居るように遠くに聞こえた。

「生年月日」

「昭和25年3月13日」

「職業」

ー調理人、と言いかけて
少し詰った。

「無職です」

言った瞬間、胸に突き刺さり
自分の内部で何かが崩れた。

 

「検察官基礎事実についてどうですか?」

雨海は立ち上がり読み上げ始めた。
自信があるのか
その背筋は反り返ってるようにも見える。

「被告人は昭和60年、2月20日の深夜
三鷹市の野川……

清志にはその読み上げが耳に入らない。
覚えも無い基礎の内容に腹が立って仕方ない。

証言台の下で拳を握る手が震える。

「被告人、今の基礎事実に何か意見がありますか?」

裁判長にそう言われて初めてその顔をしっかりと見据えた。

中々言葉に出来ない。

呻くように

・やってません・
と漸く声が出ると

「私は全て覚えがありません。
無実です。」

傍聴席のどよめきが広がって行く。

「弁護人の意見は?」

「被告人と同意です。」
玉川のその言葉にまたも場内はざわめきだって
記者らしき人の動きが目立つ。

光はしっかりと少しやつれた夫、清志を見つめて居る。

「静粛に!」
と制する裁判長の投げかけにザワザワと場内が次第に静まって行った。

「それでは証拠調べに入ります。」

雨海は証拠の全てを出した。

「証拠第一号、の証拠、刺身包丁です。」
「貴方のものですね。」

清志は一瞬だけ目を伏せた。
「間違いありません。」

法廷の空気が僅かに緩む。

次の言葉で

「ですが、使ってはいません。」

再び凍りついた。

証拠第二号は返り血を浴びた白衣で有ったが
刺身包丁と
同じ受け答えであった。

証拠第三号は供述調書であり
雨海は裁判長に良く見えるように見せてから

「貴方が供述したものですね。」

「違います。」
「供述は勿論、
署名もしていません。」

静かに、そしてしっかりと答えた。

記者の、忙しく走らせるペンの音が傍聴席に響いている。

「それについて弁護人はどう考えますか」
裁判長の言葉に
玉川は少し前へ出て
少し間を置きながら
雨海を見つめるでもなく見て

「争います。」
と決意を見せた。


「本日の審理はこれで終了します。」

裁判長の静かかな告知がなされていく。
「次回は4月25日、検察官請求の証人尋問を行なう事とします。」

「閉廷とします」

履けて行く人々の、合間を抜けて法廷を出ると
玉川弁護士は、見失いそうな横田の後ろ姿を追いかけたのである。

 

 

二つの親

                 検事の取り調べ

 

  長いその廊下を手錠をかけられて入った部屋は、担当検事の
雨海民生(うかいとみお 32歳。)
の執務室であった。
入るなり、まだ若く身体付きはヒョロとして何処か異様な感じのする男に見えて、傍に座る秘書の方が検事らしいな、と清志はそう感じた。

雨海の目付きはそのメガネの奥で細い。
だが、人を小馬鹿にしたような、斜めから見透かすような、嫌な空気が漂っている。
手錠を外されて、座る事を勧められた。

座ると、

「私が貴方を担当する雨海です。生田清志さんですね。取り調べはきつか
ったですか?」
と意外なことを言って来た。

言葉に詰まってしまった。
本当の事を言いたい。
でもこの検事の意図が読めない。
黙っていた。

「ま、いいでしょう。」
突き放す言い方だ。

「これから其の君の、
昭和60年2月20日深夜、三鷹市大沢野川町で起きた
上野聖子さん22歳、殺人事件について真実を突き詰めて行くことになります。」

その言葉に胸を剥がれる。

「貴方は無罪を主張してますね。
それについて少し話してください。
・・どうですか?
罪を認めて供述調書に判輪を押してね、それでも此処で無罪を主張されますか?」

 

「ま、待ってください、僕は罪を認めても無いし、判も押してません。」

 

雨海は細い目で彼をじろり、と一睨みして

「ここまで来て嘘は通用しませんよ。」
と釘を刺した。

 

「現場から貴方の指紋が付いた刺身包丁と、返り血を浴びた貴方の白衣が押収されてますね。」
「それでも本当に無罪だとまだ言いますか。」

 

清志は頭を雨海に向け、はっきりと話し出した。

 

「はい、私は事実、その殺人してません。
刺身包丁は以前働いていた店の親方から貰った大事な宝物でした。
其れを箱にしまったまま私のロッカーに保管してあったものですし、白衣はもしもの場合の替えとして新しいのを一枚ロッカーに下げて置いたんです。其れが使われた事に私は驚いてます。」

一気に気持ちを吐き出した。

 

「ほうー、それが何故消えたのでしょう?
鍵はかけて置いたのですか?」

 

「勿論です。料理人ですから私物は持ち歩けません。ですからいつも首から下げていたんです。」

「ならやはり貴方犯行と私は思うがね。」

 

「違います。取り調べの時にも何回も言いました。私は人を殺してません。
全く知らない女性なんです!」

感情的になって居る自分が嫌で堪らなく情けない。

雨海はそんな清志をじろり見つめている。

 

「ま、いいでしょ、いずれ、はっきりします。
今日はこれで終わります。」

 

その言葉で
取調室のあの悪夢が再燃し、
またあんな思いがこれからも続くのか、と胸が締め付けられる思いに駆られていると、

 

「どうしましたか。終わりです。」
と冷たく言われて

また手錠をかけられた。

其のカチャッとした小さな音が殊更絶望を思わせたのである

付き添われて執務室を出ようとしたその時

「あ、それから、あなたの不利になる事、言わなくても良いですよ。こちらで調べますから。」

 

棘のある言葉を浴びた。

 

拘置所に帰る廊下は長く明るい。
だが、彼には薄暗かった。

 

不利になる?
俺はやってはない
食えない男だな。

 

繰り返し心が呟いている。

 

背中も重く、
歩く足も重い。

軽く当たる手錠の音だけが響いていた。

 

その頃、雨海の執務室では

彼はネクタイを緩めながら
「北島君、明日三鷹市の生田の犯行の周りを探ってみるか。」
と面倒くさそうに言った。

 

自分のデスクに腰を下ろして、供述調書を北島に聞こえるようにトントンと叩いた。

「これ、ほんとに彼の供述だろうか。」
とボソッと呟いたのである。

 

耳だけ雨海に向けていた中島は
顔を彼に向けた。
自分も感じていた疑惑だった…。

だが、何も答え無い。

 

その夜、雨海は葛飾区の柴又に近い自宅のベランダで星空を眺めていた。
今回、担当する事が決まり、取調べの前に上司から言われた事が頭の中をグルグル回っている。

 

 「やっこさんは物証がしっかりして居るし、自分しか触れ無い処からそれらが消えてる、それがどういう事か君なら分かるだろう。」

 

あれは指示だ。圧力と言っていい。

 

確かにそうだとも
またか、とういう思いも有る。

 

もし、あの供述調書に何かしらの手が加えられていたら…

 

…あの時の思いはもうしたくない。

だけど……。

その複雑な思いは3年前、
あの拘置所の報告書。
白い紙に並んだ無機質な文字、
「自殺」とだけ書かれたあの夜。

もうその思いは沢山だ。
それから雨海は組織も人を信じられないでいたが
・自分は司法を司る者として人の犯罪を暴かく組織の一員なのだ・
とも思う。

 

そんな彼は未だ伴侶も得ず、この実家に父親と暮らして居るのであった。

冷静に話そうとそう決めていた。
その冷静さが更に冷たさを呼んでる。
彼自身承知の事だ。

 

まるで今の自分のようだ。

淀んだ都会のこの星空だ。
ー彼は歯がゆかった。

 

次の日、
雨海は確かに北島秘書と三鷹市北口の駅の傍にある清志の働いていた和食店、(小波)で店員から話を聞き、
大沢の野川の現場を見、そして光の働くスーパーに立ち寄り仕事中の光を呼び出して詰問したのである。

光はスーパーの搬入口に案内した。
人に聞かれたく無かったからだ。

話を聞いて光は戸惑いを隠せない。

雨海の口から出る言葉は、清志の犯行を決めつけた上での事だけだった。

彼は早く終わらせたかったのだろう。

でもそんな事は光に関係無い。

「何だか、主人が犯人と決めつけてらっしる言い方ですね。
うちの人は間違っても人を殺したりする人じゃ有りません。もうお引き取りください。不愉快です!」

店に荷を下ろしている業者の運転手が、ふと手を止め、声の方へ目をやった。

 

夢中でそう言い切った光は其れに気付かない。

それ程の憤りである。

 

北島は雨海の顔色を伺いつつ、
其の内容を必死にメモを取って居る。
ーそれはあの時の、
行田を見る横田の目と何処か似ている。

雨海は、彼女を冷たく見据え

「ま、家族の方はみんなそう言いますよ。でもですね、これから起訴となったら裁判で明らかになります。ご主人の犯行かどうかね。
あー、仕事中でしたね。ありがとうございました。」

 

言い方はとても断定的で、一応手間を取らせた言い訳をした。

もう、気持ちはもうヘタレて居て、
客相手の仕事をする気持ちも失せて、その後に彼女は早引けをしたのである。

誰しも初めて会う時に、目の前の其の人の表面しか見ていない。

・・あの検事だって、私を本当の意味では理解出来ないだろうし、私だって心の奥なんて見えない。
役目柄本当に仕方なかったのか・・

あの態度で良かったのだろうか、と夕食の箸が止まったままご飯茶碗を見つめていた。

「母ちゃん、食べ無いの?」

無邪気な純也のその問い掛けに
其の肩の力が抜けたのである。

 

其れから犯行を決めつける聴取を二度ほど行い、
雨海は早々と起訴状に署名した。

其処に、何らかの圧力が働いたのは確かな事だった。

それがー
清志と雨海の運命を決める、長い分岐点と繋がってるなど
誰が知り得ただろうか。

 

清志の思いが通じないまま、
全ては裁判へと投げ出された。

刑事を辞した男

刑事を辞した男

横田は警察を憎んでいる訳では無かった。

警察を去って二日目の事である。

この事務所の主、
二階堂進(にかいどうすすむ 52歳。)弁護士は敏腕な冤罪弁護士として名を馳せている。


横田が法学部で学んでいた時、臨時講師として教壇に立った。
其れに警察官となってからの過去の事件との関わりから
其の人格の素晴らしさも見知って居たのである。

 

彼の冤罪弁護士としての実績は横田には捨て難く感じでいて、

今の生田が受けるで在ろう裁判の事をどうしても相談したかったのである。

アポを取っていた。

見るとその彼とは似つかない小さなビルの2階に借りた狭い事務所。
其処に、二階堂本人と事務員が男女1人づつ計3人が立ち働いていた。

「先生、お久しぶりです。」
と挨拶をすると

「ま、かけなさい。今日の要件は察しが付いてるぞ、ー野川の殺人事件の事だろ?
違うか?」

横田に緊張が走った。

図星だ。

二階堂はカラカラと笑った。

「君が担当していて、警察を突然辞めた事はお見通しだよ。」

ー謎だ、何処から知ったのだろうーー

「不思議でも何でも無いさ、田上君から電話があったよ。」

其れで納得した。

田上班長はこの人の従姉妹だ。

あの素っ気ないあの日の

・ あ、そう ・
と呟いた時に僕の気持ち見抜かれて居たのか、
やっぱり班長は班長か

「ほら、被疑者の身柄送検が確定した日の夜ね、電話くれたんだよ。」

驚いた。
そんなに早くに此処に来る事分かったのか、と、

「支援者のね要請があれば、僕は弁護するよ。
あれは裏取りも自白も無かったようだな。」
「違うか?横田君。」

先生はもう下調べしてある。

「違うも何も供述も取れて無いんです!先生。」

二階堂はさもあらんと頷いた。
その顔が嬉しかった。

だが、敢えて尋ねる。

「先生は何処までこの事件に本気でしょうか?」

二階堂は間を開け、ニヤリとして答えた。

「反対に君はこれ迄の僕をどれほど見て来たか、お聞きしたいね。」

1本取られた!と

彼は髪の毛をクシャクシャ弄り回し照れまくった。

その時女性の事務員がお茶を入れてきてくれた。
20歳位の可愛い顔立ちをしている。ふとネームプレートを見ると

【二階堂瑠美】
え、二階堂って
2度見する。

「先生この方刑事さんだった方でしょ?ならいっそここで働いて貰ったらいかが?」

今なんて?

「それも有り。かな?」


細長い身体を揺すってて二階堂は大笑いしている。

だから本心は分からない。

彼女をちらっと見た


心が疼く
もしかしたら俺…

彼はふっと顔を上げ
思い出したように言った。

「先生、ありがとうございました、これからもう1件立ち寄りたくて。」

「明日君のデスク用意させておくよ。」
咄嗟に
「何時に出勤したら良いでしょう?」
と聞いてしまったものだ。
「一応8時30分と決まってるのよ。」
と瑠美が笑顔で教えてくれたので有る。

二階堂弁護士と一緒に働く事は何処かで決めていた事のような気持ちだった。

よし、戦うぞ

そう思った彼の後ろ姿に迷いは見えなかった。

 

国選弁護人

二階堂弁護士と会ったその足で
三鷹市の清志の妻、
生田光(いくたひかり 32歳。)
に会いに行ったのは、その清志の弁護人に二階堂を進める為で在ったが、其れは生田家の経済状況が原因で既に
国選弁護人

玉川雄二(たまがわゆうじ 62歳。)
が其の任に就いていて其れは徒労に終わってしまった。

其の玉川は物静かで温厚な性格で有り、評判も悪くは無い。


其の夜に二階堂と電話で話した。

「横田君、君の気持ちはよく分かるよ!、
…、でもね・・
玉川さんか、そうか、安心していい、彼も良くやる男だよ。
私としても残念だがね、
しかし、何故か、この事件、何処かで何かしらで関わる、ーそう思えてならんのだよ・・
ま、その時が来るまで事務所を裕福にしとこうかねぇ〜。」とカラカラ笑っている。

反面、先生が人一倍残念な気持ちでいる事はその声のトーンから伝わっている。

それで横田の気持ちは切り替わった。

よし、俺は先生の手と足になるぞ!

彼はテーブルの上のブランデーの瓶に空のカップを軽く当て、チンっと心地良く鳴ったその音に何だか嬉しくなったので在る。

翌朝横田は言われた時間よりも少し早めに出勤した。

出勤簿などは無い。

一通りの挨拶が済むと、留美が教えてくれたデスクに

事務所のドアーを開けると直ぐに通路が見える。

その斜め前に窓を背にしたデスクが二階堂弁護士の席であり、横田の席から近く
何時でも打ち合わせが可能な位置に配置されて居る。

いつの間にか新聞もお茶も置かれていた。
其れは彼好みのブラックコーヒーだった。

ー何で分かったのだろう・・・あ、田上班長の情報か・・・

「横田君、その新聞の二面記事に目を通してくれんか?」

手にすると其れは残忍な見出しの記事だ。

【⠀杉並、阿佐ヶ谷、深夜の1家4人無惨な殺傷皆殺し事件】
3月6日ら水曜日の未明、警視庁に男性から助けを求める通報有り、警視庁は逆探知で通報元を確認、杉並北警察署が現場に急行し、一家4人血まみれで息絶えて居るのを発見した。
その内の若い男性が携帯電話を手にしていた事から通報者が断定される。
・・・

・・・
侵入経路が分かっておらずに、杉並北警察署は外部からの殺人と一家の無理心中も見据え捜査を進める。

横田はその記事に身体が固くなる。

「その記事は三洋新聞の沖田君がすっぱ抜いた。
連絡先メモ書いたから、君、事情を聞き出して・・」

そう二階堂が言い終わらない内、脱いだばかりのコートと其のメモを引きちぎり持つと
「行って来ます!」
と、彼は迷う事無く事務所を飛び出して行った。

デスクには冷めたコーヒーと新聞が残されている。

「何も急ぐ事は無いのになぁ・・留美、彼は当たりくじかも知れんね、其れも高額のね。」

彼が消えた事務所から3人の嬉しそうな笑い声が雑居ビルの通路に漏れ聞こえてたので在る。

二つの親 警察を辞した男

刑事を辞した男

横田は警察を憎んでいる訳では無かった。

警察を去って二日目の事である。

この事務所の主、
二階堂進(にかいどうすすむ 52歳。)弁護士は敏腕な冤罪弁護士として名を馳せていて、
横田が法学部で学んでいた時、臨時講師として教壇に立った時、其の授業を受けて、既に面識があったし、警察官となってからの過去の事件との関わりから其の人格の素晴らしさも知っていた。

その後、彼の冤罪弁護士としての実績は横田には捨て難く感じでいて、

今の生田が受けるで在ろう裁判の事をどうしても相談したかったのである。

アポを取っていた。

見るとその彼とは似つかない小さなビルの2階に借りた狭い事務所。
其処に、二階堂本人と事務員が男女1人づつ計3人が立ち働いていた。

「先生、お久しぶりです。」
と挨拶をすると

「ま、かけなさい。今日の要件は察しが付いてるぞ、ー野川の殺人事件の事だろ?
違うか?」

横田に緊張が走った。

図星だ。

二階堂はカラカラと笑った。

「君が担当していて、警察を突然辞めた事はお見通しだよ。」

ー謎だ、何処から知ったのだろうーー

「不思議でも何でも無いさ、田上君から電話があった。」

其れで納得した。

田上班長はこの人の従姉妹だ。

あの素っ気ないあの日の

・ あ、そう ・
と呟いた時に僕の気持ち見抜かれて居たのか、
やっぱり班長は班長か

「ほら、被疑者の身柄送検が確定した日の夜ね、電話くれたんだよ。」

驚いた。
そんなに早くに此処に来る事分かったのか、と、

「支援者のね要請があれば、僕は弁護するよ。
あれは裏取りも自白も無かったようだな。」
「違うか?横田君。」

先生はもう下調べしてある。

「違うも何も供述も取れて無いんです!先生。」

二階堂はさもあらんと懐いた。
だが、敢えて尋ねる。

「先生は何処までこの事件に本気でしょうか?」

二階堂はニヤリとして答えた。

「反対に君はこれ迄の僕をどれほど見て来たか、お聞きしたいね。」

1本取られた!と

彼は髪の毛をクシャクシャ弄り回し照れまくった。

その時女性の事務員がお茶を入れてきてくれた。
20歳位の可愛い顔立ちをしている。ふとネームプレートを見ると

【二階堂瑠美】
え、二階堂って
2度見する。

「先生この方刑事さんだった方でしょ?ならいっそここで働いて貰ったらいかが?」

今なんて?

「それも有り。かな?」

細長い身体を揺すってて二階堂は大笑いしている。

だから本心は分からない。

彼女をちらっと見た

あ、ー、もしかしたら此処へ来るー

「先生、ありがとうございますした、これからもう1件立ち寄りたくて。」

「明日君のデスク用意させておくよ。」
咄嗟に
「何時に出勤したら良いでしょう?」
と聞いてしまったものだ。
「一応8時30分と決まってるのよ。」
と瑠美が笑顔で教えてくれたので有る。

二階堂弁護士と一緒に働く事は何処かで決めていた事のような気持ちだった。

よし、戦うぞ!

そう思った彼の後ろ姿に迷いは無かった。

 

 

 

                           国選弁護人


昨日、三鷹市の清志の妻、光に会いに行ったのは、その清志の弁護人に二階堂を進めるためだった。
だがそれは徒労に終わってしまった。
既に国選弁護士がその任に付いていて居たのだ。
生田家の経済状態が原因であった。


まだ基礎は決まってない。この段階で決めておく事はかなりこの先大切な事となる。
だから彼は二階堂弁護士を、と進めたかった。

何しろ裏取りは無し、物証のみで逮捕、身柄送検、されている。
一筋縄ではいかないと、横田は踏んでいたのだ。、
だが理由を聞けば納得をせざるを得ない。

その国選弁護士は玉川雄二(62歳)である。物静かな温厚な性格な人物と知る人は多かった。


夜に二階堂と電話で話した。

「横田君、君の気持ちはよく分かるよ。
…、でもね、。」
玉川君か、そうか、安心していい、彼も良くやる男だよ。
残念だがね。私としても……しかし、何故か、この事件、とね何かしら私はね関わる、とそう思えてならんのだよ。
その時が来るまで事務所を裕福にしとこうかねぇ〜。」とカラカラ笑い声を出している。
反面、先生が人一倍残念な気持ちでいる事は電話を通してが伝わって来ていた。
それで横田の気持ちは切り替わった。

よし、俺は先生の手と足になるぞー、
彼はテープルの上のブランデーの瓶にカラのカップを当て、其のチンッと鳴るのを聞いて何だか嬉しくなったのである。

           

二つの親 2

検察検事の取り調べ

長いその廊下を手錠をかけられて入った部屋は、担当検事の
雨海民生(うかいとみお 32歳。)
の執務室であった。
入るなり、まだ若く身体付きはヒョロとして何処か異様な感じのする男に見えて、傍に座る秘書の方が検事らしいな、と清志はそう感じた。

雨海の目付きはそのメガネの奥で細い。
だが、人を小馬鹿にしたような、斜めから見透かすような、嫌な感じが漂っている。
手銃を外されて座る事を勧められた。

椅子に座ると、
「私が貴方を担当する雨海です。生田清志さんですね。取り調べはキツかったですか?」
と意外なことを言って来た。

言葉に詰まってしまった。
本当の事を言いたい。
でもこの検事の意図が読めない。
黙っていた。

「ま、いいでしょう。」
突き放す言い方だ。

「若い女性を刺し殺したって?」
「これから其の君の
昭和60年2月20日深夜、三鷹市大沢野川町で起きた
上野聖子さん22歳、殺人事件について真実を突き詰めて行くことになります。」

その言葉に胸を剥がれる。


「貴方は無罪を主張してますね。
それについて少し話してください。どうですか?ここでもそうされますか?」

意地の悪い言葉と感じた。

「現場から刺身包丁と、返り血を浴びた貴方の白衣が押収されてますね。」
「それでも無罪を主張し続けますか?」

清志は頭を雨海に向け、はっきりと話し出した。

「はい、私はあくまでその殺人はしてません。刺身包丁は以前働いていた店の親方から貰いました大事な宝物てした。其れを箱のまま、私のロッカーに保管してあったものですし、白衣はもしもの場合の替えとして新しいのを一枚ロッカーに下げて置いたんです。其れが使われた事に私は驚いてます。」


「ほうー、それが何故消えたのでしょう?
鍵はかけておいたのですか?」

「勿論です。私は料理人ですから私物は持ち歩けません。ですからいつも首から下げていたんです。」

「ならやはり貴方なのでは無いのですか。」

「違います。取り調べの時にも何回も言いました。私は人を殺してません。
全く知らない女性なんです!」

少し感情的になってる自分が嫌だった。

「ま、いいでしょ、いずれ、はっきりします。
今日はこれで終わります。」

その言葉で
あの取調室のあの悪夢が再燃し、
またあんな思いがこれからも続くのか、と胸が締め付けられる思いに駆られていると、

「どうしましたか。終わりです。」
と冷たく言われて
また手錠をかけられた。

其のカチャッとした小さな音が絶望を思わせたのである

 

付き添われて部屋を出ようとした時、不意に

「あ、それから、あなたの不利になる事、言わなくても良いですよ。こちらで調べますから。」

棘のある言葉を浴びたのである。
不利になるも何も、俺はやってはない!と大きな声で叫びたかった。

雨海検事は食えない男である事をこの短い時間で強烈に感じたのである。

拘置所に帰る廊下は明るいのだが其れも清志には薄暗くてずっしりとした重さを覚えながら歩いたのであった。

その頃、雨海の執務室では
「北島君、明日三鷹市の生田の周りを探ってみるか。」
と面倒くさそうに北島と呼ばれた秘書に話して居たのである。

その夜、其の雨海は自宅のベランダで星空を眺めていた。
清志を担当する事が決まり取調べの前、上司に言われた事が頭の中をグルグル回っている。

「やっこさんは物証がしっかりして居るし、自分しか触れ無いところからそれらが消えてる、それがどういう事か分かるだろう。」
間違いなく圧力をかけて居る。

だが確かにそうとも思う。
だが、またか、とういう思いも有る。
今日あった彼に犯罪の強い影と言うものは見いだせなかった。
あの時の思いはもうしたくない。
だけど……。
その複雑な思いは3年前、
あの拘置所の報告書。
白い紙に並んだ無機質な文字、
「自殺」とだけ書かれたあの夜。

もうその思いは嫌だ。
それから雨海は人を信じられなくなって、未だ伴侶も得ず、杉並の実家に父親と暮らして居るのであった。

冷静に話そうとそう決めた。だが、その冷静さが冷たさを呼んで居る。
そんな事は彼自身分かっていた。
でもどうしても本来の思いを表に出せない。
彼はもどかしくて、
今の自分のようだ。
今見ている淀んだ都会の星空そのものだ。と、そう自分を見つめて
暫く其の空から目を離せなかったので有る。


それから雨海は確かに三鷹市北口の駅の傍にある清志の働いていた和食店、(小波)と、
大沢の野川の現場を見、そして光の働くスーパーに立ち寄り仕事中の光を呼び出して詰問したのである。

その訪問に光は戸惑いを隠せなかった。
何故かと言うと、
雨海の口から出る話は、清志の犯行を決めつけた上での事だけだからだ。

いや、彼は内心早く終わらせたかったのかも知れ無い。

でもそんな事は光には分からない。

「何だか、主人が犯人と決めつけてらっしる言い方ですね。
うちの人は間違っても人を殺したり出来る人では有りません。もうお引き取りください。不愉快です。」

光は気丈にそう言う。
心の奥は怒りでいっぱいであった。
検事だから仕方ないと思いながら
モヤモヤしていた。

雨海はまたメガネの奥から冷たい目つきで光を見て

「ま、家族の方はみんなそう言いますよ。でもですね、これから裁判で明らかになります。ご主人の犯行かどうかね。
あ、仕事中でしたね。ありがとうございました。」

言い方はとても断定的で一応手間を取らせた言い訳をしていた。

光はその日はもうそんな風だから客相手の仕事をする気持ちも失せてしまい早引けをしたのである。

誰も初めて会う時には目の前の其の人の表面しか見ていない。

・・あの検事だって、私を本当の意味では理解出来なかったろうし、役目柄本当に仕方なかったのかも・・
あの態度で良かったのだろうかと其の夜、光は夕食の箸を止めて少し反省していた。
「母ちゃん、食べ無いの?」

無邪気な純也のその問い掛けで肩の力を抜けたのである。


其からまた犯行を決めつける聴取だけの清志への取り調べを再度行った。
調べはそれで終了にして
雨海は早々と起訴状に署名した。

そこに上からの圧力は確かに存在したので有って、

其れは清志と雨海の運命を決める長い分岐点と繋がってるなんて誰が分かっていただろうか。

清志が無念な裁判の場に立たされるれる事が確かに決定したのだった。

 

 

2つの親 1

二つの親 1

虐 め

世間は無常に陥る事が多々在る。
大人の世界は其れも辛辣極めるが、子供の世界も其れは同じで、其の幼い思考故に、場合に依り其れは大人よりも辛辣となるので在る。


ー今、目の前に居るこの純也に、
・・私はどうしたら生きる勇気を引き出し、希望を持ち学校生活を送らせる事が出来るのか・・

と、言葉に出せない苦悩が今、由美子に襲って来、もがいていた。

純也は泣かずに堪えて居る。
其れが強がっての上と伝わって来て、彼女の胸も痛い。

「純也君、辛かったら我慢する事あらへん、誰も居てへんし、先生の前で我慢せんとええ。」
耐えられず由美子はそう促した。
そう言ってあげるのが、今の彼女が出来る事の精一杯だった。

みるみる内に涙が溢れ出した彼は、いきなり由美子にすがって声を上げて泣いた。

・・父ちゃんは人なんて殺して無い!・・

泣きじゃくっているから言葉として聞きづらいのだが、
そう、繰り返し言って居る。

相当な我慢に違い無かったのだろう。

由美子の心もしかり
震えて、ようとして止まらない。

彼も震えて居る。
其の肩を抱きしめた。
ー母がそうするように

何故虐めを受けるのか、
其れはさっき純也が叫んだ事に尽きる。

愛人と思われる女の帰宅を待ち伏せて刺殺した罪を課され、純也の父
生田清志(いくたきよし 35歳。)
は今、調布東刑務所で服役して居る。

この事件は清志本人が其の取り調べに於いて、一貫して無罪を主張している事が、三鷹西警察署内の番記者が聞き及んだ事も在り、このまま起訴されれば冤罪になる可能性も在るとの噂が立ち、一時、新聞各社も其れを取り上げた。

が、清志の指紋、血が付いた刺身包丁と、刺した時の返り血を浴びた料理人の白い作業着が現場で発見されており、
其れらの血液が被害者の物と一致し、作業着から採取した頭髪が清志の物と認定された為に其れが動かぬ物証となり、確たる裏付けも曖昧のまま、其れと決め付けた捜査員により断定され、捜査課として起訴に至った。
あろう事か、検察の検事も手ぬるい捜査の上送検し、其の裁判で有罪が確定したので在る。

その時、毎朝新聞の友成(ともなり)記者だけが、「言聞」の欄に、
・捜査が手ぬるいままの起訴、送検であり、この判決には疑問が残る・
と勇気有る記事を登載したのだが、それ以上にマスコミも騒ぐ事は無く、いつの間にか立ち消えたので在る。

由美子は気になって、其の事件を自分なりに少し考え調べてみた。

二学期の終わりの家庭訪問で清志とは一度だけだが面識が有った。
其の傍に座っている温和な純也の母光(ひかり 33歳)と、一人息子の純也をこよなく愛する其の人格が滲み出て居た。
其れを思うと、彼があんな残忍な事をするとはとても想像が付かないのだ。

事件は昭和60年2月20日の早朝に、三鷹市大沢の天文台からそう遠く無い所に流れる野川の河川敷で起きた。
野川沿いの土手の際に被害者となった
上野聖子(うえのせいこ 22歳。)
のアパート、野川荘が建っており、聖子は其の2階の202号室を借りて居たのだった。

其の朝は、前の晩からどんよりとした空に重さを含んだ雲が広がって、小雨が降り続いていた。
それだから、コンクリートの道路は無論、天文台への橋も野川荘から河川敷迄の楓の樹と、坂の土も、枯れて尚長い穂を残すススキや、雑草も、かなりしっとりと水分を含んで居た。

未だ夜がしっかり明け切らない早朝のこの辺りは
其の頼りない、ぼんやりとした街灯だけでは、視界が悪くて足を運ぶのも危なっかしく、未だ人の通りも殆ど無い、そんな状況だった。


通報

現場から新宿方面に東八道路を少し歩くとそこは調布市深大寺東町辺りだ。


其のホームセンターの南側の三鷹市野崎、に、其の通報者となる
上島洋佑(うえしまようすけ 54歳。)
の住まいが在った。
洋佑は何時もよりも早い時間に、
小太郎(黒柴犬)の散歩の支度を急いでいた。
この日は会社の定例会議が在り、役員として其れに遅れる訳がいかない上、昨夜からの小雨で散歩の準備に手間がかかる。
それでも他の家族に小太郎の散歩は譲れなかった。
それ程可愛くて、小太郎を溺愛しているので在る。
だから何時もより30分早い時間にした。
小太郎に透明のカッパを着せて、自分もそうして身支度を終えると、小太郎が台所に居る洋佑の妻、妙子に、ワンっと、鳴いて知らせる。いつもの事だ。

「ハイハイ、行ってらっしゃい。」
その声を合図に玄関をてまるのだ。

 

朝早くまだ暗い。
しかし、小太郎は迷わず天文台の方向に曲がった。
河川敷に踏み込むと、枯れた草木の香りの中に、何か其れとは違う匂い微かに彼の鼻を突いた。
震える手でカッパのポケットから懐中電灯を取り出すと、其の吠える先を照らした。

声にならない!
其れを見た途端、洋佑はその場に座り込み、湿った音を立てて後ずさった。
其れは漸く東の空が白んできた6時5分過ぎ、
通報が入った正に其の時で在った。