二つの親 4

日本の法の元では結審した刑を裁判のやり直しに持って行くのは本当に指南の技でとてつもない時間をかけて命を削って支援者達が立証し嘆願しても差し戻し裁判が棄却される事は珍しく無い。

汚名を着せられた者が悔し涙を流してどれだけの受刑者が犯罪人のまま人生を終えたのか。

実に控訴していた受刑者の80%に及ぶ。 本当に免罪で有るならどんなに悔しく絶望の中にいたのだろうと計り知れない。
清志もまた疲れ果てていた。体力も気力も既にギリギリである。、このまま来年満期での出所となる公算が強いかった。
それだけに支援者達は真剣であった。

支援者の中には清志の事件は冤罪と疑わない捜査員が、その信念で警察を辞して支援者会に参加し根強い捜査をかってでた男もいた。武蔵野北警察署で当時この事件を担当した元捜査員有村哲平、五十六歳、その人である。

彼は最初から物証のみで起訴したそのやり方に疑問を持って居た。
現場検証した時にその物証に疑問を抱いたと話している。凶器は調理用の刺身包丁、それに返り血を浴びた調理人の白衣。共に清志の物に違いないがロッカーに入れて置いた物だった。だが清志は料理人だから持ち物には凄く気を使っていた。刺身包丁は修行時代に親方から貰い受けた物で所謂宝物であり、ロッカーに箱に入れてしまって置いたもので有るし、白衣は普段使わないサラのものを一枚吊るしておいた。いざと言う時のものだ。其れが無くなって、現場に有ったものだ。そして現場の指紋はその物証以外からは出て無かった。その筈で有る、清志は其のマンションも知らない。事件当初、15年前の三月二十三日午後九時頃。店が休みで早めに寝たのだが家族以外其れを証言出来る者がいなかった。

実はそのマンションの部屋の至るところの指紋は全部調べたのである。その中に清志と同じ料亭の調理人、中川浩(同時三十二歳。)の指紋も出たのである。土足で押し入った筈の清志の足跡も見つからなかった。
にも関わらず、清志を攻めたて自白の無いままの基礎となった。有村はそれに納得がいかずもっと中川の捜査をと進言したが通らずじまいになった。生涯平の捜査員で、独身を貫いていたし、面倒な親戚も居ない。であるから怖いものは無い。警官を辞める決心をし、自分の経験が生きるであろうと担当弁護士の伊藤政治弁護士事務所の一員となり、支援者の一人となったのである。
其れは光にとって、どれほど力強い味方で在ろうか。
一筋の光が差し込んだようであった。

 

手直しをしながら5に続く